クリーム色の戦場

序章 終章

   4.第二軍時代・再会

 第二軍は、ラング・バウの西・ローレングラードに本部を置く、重装甲歩兵軍団であ
る。魔物の破壊力に対抗するため、また超人的な肉体を撃破するため、その装甲の厚さ
と攻撃力は、全軍中で、第一軍と並び最大を誇る。
 その参謀本部は、知将と名高いアリストレス・カーム将軍のブレインとして集められ
た人物ばかりで、クリームもその名を耳にした人物も含まれていた。
 ただ、切れることはイコール公平である、ということではない。むしろ、切れるから
こそ、自分の手足となり得る人物、利用価値の高い人物以外は歓迎されなかった。まし
てやクリームのような「切れすぎる女」は、ただでさえ男性優位の軍では疎まれる。
 アリストレスは優秀ではあったが、それだけに多忙を極め、軍の機能を損なうのでな
ければ、多少の問題は気にしてはいなかった――というより、気にしてはいられなかっ
た。故に、参謀たちが自主的に「参謀本部の機能推進・活性化」のために行動しても、
それはアリストレスとしては望むところであり、止める理由は何もなかった。そのため
に、参謀が一人や二人欠落することになっても、迅速かつ効果的な軍事行動の妨げにな
るのでなければ、むしろ奨励すべきであるとさえ彼は考えていた。
 それを旅の途中、随伴した兵士に聞かされて、クリームは「優秀なブレイン」の実体
をまず知ることになる。そして、その一角に食い込むことの難しさを。
 しかし、だからこそここでは、彼女の望んでいた活躍の場があると感じられた。回り
が切れるからこそ、自分の目標ともなり、より高みへと進むための「踏台」にもなる。
落ち込んで、絶望に浸っていれば、自分が彼らの踏台にされるだけである。厳しい環境
だから、と落ち込んでなどはいられなかった。
 いや、落ち込む理由など、彼女にはなかった。
「お待ちしておりました、ガノブレード大尉」
 クリームは、ローレングラードで出迎えた二人に、驚きの表情を作った。
 そして、数瞬後には、それが笑顔に変わっていた。
「マーニャ……サスティナ!」
「お久し振り」
 出迎えたのは、参謀のマーニャ、そして半年前、ここの第二重装甲兵隊長に抜擢され
たサスティナの二人であった。
「バインド先輩も来てるのよ」
「バインド先輩が?」
 聞けば、一年前、首都防衛の第三軍に転属になったバインドが、サスティナと共にこ
こに転属してきたという。
「あたしの直接の元上官ってわけでね。一緒に来たのよ。第二軍副官」
 と、サスティナは苦笑混じりに答える。
「転属っていうより、飛ばされたのよね。あたしをかばって、さ」
 ――サスティナは、元より体力的には男性よりは劣るものの、文武両道に優れていた
ため、すぐに突撃隊副長にまで出世した。しかし、それを妬んだ兵士に暗に様々な妨害
を受け、果ては集団暴行にまで及んだ。
 それを助けたのが、バインドであった。現場に駆けつけたバインドは、まだ服を破ら
れただけであったサスティナを救出すると同時に、その暴行の実行犯を全員、返り討ち
にした。
 バインドは、その一件で軍法会議にかけられたが、軍団長のミネバは無罪判決を下し
た。しかし、手元に置いておくと再び問題を起こす可能性があるため、丁度番裏の砦か
らの常駐軍交替の時期でもあり、バインドとサスティナは第二軍への転属となった。暴
行未遂犯は、主犯は斬首、共犯は軍追放もしくは降格処分となった。
「クリームの噂、聞いたわ。凄い活躍じゃない」
 マーニャは、特に手柄を立てる機会がなかったため、今でも平参謀である。しかし、
特に立場的に困っていることはないという。そういう意味では、ここは公平な場所であ
ると言える。
 ――それはともかく、クリームは二人に案内されながら、思案していた。ローレング
ラードは内陸の都市であり、リーザスも魔物も直接は攻めてこられない。ゆえに、手柄
の立てようがない。せいぜい、クリスタルの森からたまに出てくる魔物や、盗賊団の掃
討任務が関の山だ。とすれば、自分も、マーニャもサスティナも、大きな昇進は望めな
い。
「丁度いい。マーニャ・レトリコフ中尉、サスティナ・バルバロッサ中尉両名にも辞令
がある」
 クリームの着任報告のため、共にアリストレスの部屋に来た二人は、居合せた参謀長
から辞令を渡される。
「クリーム・ガノブレード大尉、番裏B砦にて、防衛指揮官副官として常駐任務を命ず
る。期間は明日より半年間である」
 クリームにとっては、願ってもない辞令であった。ここで都市防衛の後衛任務に就く
より、危険ではあっても手柄の立てられる前線の方が、クリームにとっては都合がよか
った。
「マーニャ・レトリコフ中尉、番裏B砦にて、参謀として常駐任務を命ずる。期間は明
日より半年間である」
 マーニャにとっては、晴天の霹靂であった。しかし、クリームが一緒であることは、
彼女にとっては大きな喜びであり、心の支えであった。
「サスティナ・バスバロッサ中尉、番裏B砦にて、第一重装甲歩兵隊隊長として常駐任
務を命ずる。期間は明日より半年間である」
 サスティナは、驚いてはいなかった。半年前にここに赴任してきた時には、すでに交
替要員は決定していて、次の交替に合わせて番裏の砦に配属されることは、バインドか
ら聞かされていたからである。しかし、クリームとマーニャの同行は、彼女にとっても
予想外の、それも喜ばしくもあり、悲しくもある事件であった。
 辞令が渡されると、アリストレスが口を開いた。
「ガノブレード大尉には申し訳ないが、明日ここを発ってB砦に着任してもらいたい。
レトリコフ中尉、バルバロッサ中尉両名も、本日中に支度を整えてくれ」
「了解しました。明日よりの番裏B砦常駐の任、拝命致します」
 クリームは顔色一つ変えず、敬礼して答えた。サスティナ、マーニャもあわててそれ
に倣う。
「ガノブレード大尉」
 出て行こうとするクリームを、アリストレスが呼び止める。
「部屋に荷物を置いたら、もう一度ここへ来てくれたまえ」
「はい」
 なんだろう、とクリームは考える。
 荷物は、充てがわれた部屋ではなく、マーニャの部屋に置かせて貰う。今日は、彼女
の部屋に泊めてもらうことにしたのだ。
「戻ったら、サスティナと一緒に夕食、行こう」
「うん。出来るだけ早く戻るわ」
 荷物の片付けを始めたマーニャに応えて、クリームは再びアリストレスの元へ来る。
「まあ、座りなさい」
 ソファを勧められて、クリームは一礼して座る。
「噂はかねがね聞いている。一度君とは話してみたかった」
 手ずから紅茶を入れながら、アリストレスは話す。
「将軍にそのように言っていただけるとは、光栄の至りです」
 事実、そうであろう。クリームも、アリストレスは目標としたい軍人であった。知力
に優れ、指揮官としての采配・判断力に優れ、個人の戦闘力にも優れ、部下の信頼も篤
い。クリームにしてみれば、祖父バルジに最も近い軍人であった。
「軍事学校に入る前から、バルジ将軍の名は、私にとっては憧憬の対象だった」
 高級そうなティーセットが、湯気を纏いながらクリームの前に置かれる。
 シュガーポットをカップの横に置いて、アリストレスは微笑む。
「砂糖だけしかないのでね。それはご容赦願いたい」
「あ、いえ、ありがとうございます。頂きます」
 薫る紅茶は、昔何度か口にしたことがある、貴族御用達の高級茶である。しかし、珍
しく緊張していたクリームには、その味の良し悪しもよく分からなかった。
「憧れていたバルジ将軍のお孫さんが軍にいると、レトリコフ中尉からも聞いていたの
でね」
「は、あ……」
 アリストレスは紅茶を優雅に一口含み、これまた優雅にソーサーに戻す。その一挙動
を見ている限りでは、軍人と言うより貴族と言われた方が納得できた。
「レリューコフ将軍の甥っ子が、同じ学校だったそうだね」
「え? あ、はい」
 いきなり話題を変えられて、クリームは戸惑う。
 が、その時、アリストレスの眼鏡の向こうの瞳から、自分を観察するような視線を感
じた。
 それを感じた瞬間、クリームは「恐怖」と同時に、「この人は私を試している」と直
感した。
 その瞬間から、クリームは相手のペースから自分のペースへと移行を始める。
「クラウスト・バーコフのことですね。よく覚えています」
「彼は、廃人同様になってしまったそうだね。校舎の倒壊事故に巻きこまれたとか」
「ええ。脳挫傷で、自分ではもう考えることも出来ないそうです」
 クリームは、今度は自分からアリストレスに視線をぶつけてみせる。
 するとアリストレスは、それを真っ向から受け止めた。
「――これは噂だが、あれは事故ではなく、誰かに仕組まれた罠だ、と言われているが
……君はどう思うね?」
 アリストレスの視線は、容赦なくクリームに突き刺さってくる。
 しかし、それでひるんでいては、アリストレスに呑まれてしまう。
「そうですね、可能性はありますね。クラウストは、日頃から他の学生の恨みを買って
いましたし、倒壊した旧校舎が彼らの溜り場であったことも、公然の秘密でしたから。
それを利用すれば、十分可能です。それも、一人ではなく、複数の協力があれば、です
が」
 クリームの表情を、アリストレスは、レンズの向こうで目を細めながらじっと見つめ
ている。
「なるほど、君が考えるに、十分可能だと――」
「はい。私が考えるまでもないと思います。校舎を倒すことが出来れば、そして、それ
だけの恨みを抱いていれば――」
 最後の言葉に、アリストレスが口の端を上げる。
 クリームはそれを見て、「喋りすぎた」と感じる。
 沈黙が、無言の視線の交錯を重く包み込む。
 それを先に破ったのは、アリストレスだった。
 彼は、重い雰囲気を、声に出した笑いで一瞬にして打ち消した。
「いや、済まない。疑問は徹底的に明らかにしておきたい性分なのでね。終った事件を
どうこう言っても仕方ないのだがな」
 クリームも、緊張を解いて笑みを返す。
「君は、私の思っていた以上に素晴らしい。本来なら、私の副官を務めて貰いたかった
が、今いる副官は中央から派遣されているもので、勝手に変更できないんだ」
 アリストレスはカップをとり、香を楽しみ、一口含んでからクリームに視線を戻す。
「しかし、もし君が砦で何らかの功績を上げることができれば、私の参謀総長として迎
えようと思う」
 思わず、驚きを露わにしてしまうクリーム。
「不服かね?」
「あ、いえ、あまりに突然なもので」
 バインドやアリストレスのように、買ってくれる人物がいるのは、クリームにとって
は非常に喜ばしい事であった。
 しかし、裏を返せば、自分に相応の実力がないと分かれば、彼らの支援は得られなく
なる。
 が、そのように実力を試されるのは、クリームにとっては嬉しい限りであった。
 自分に力があれば、認めて貰える。
 それが、彼女の精神的な後押しとなっていた。
「もし、私が功績を上げ、無事帰還できましたら、その時は宜しくお願い致します」
「もちろんだ」
 アリストレスがクリームを認めたのは、彼女に「同じ匂い」を感じたから、かもしれ
ない。
 しかし、理由はどうあれ、目の前のチャンスを見逃すほど、クリームは自分の人生に
余裕を持つつもりはなかった。
 「機を見るに敏」――バルジが好きだった言葉を、クリームは今身体で感じていた。


 荒涼たる、黒に近い、降り注ぐ陽光すら闇に変えてしまいそうな、陰鬱たる大地。
 そこに拡がる、異形の植物の森。
 通称、「魔物の森」と呼ばれる土地である。
 その森を、東の人の世界と隔てる巨大な石造りの壁が、南北に伸びる。
 「番裏の砦」は、その壁そのものであった。
 高さは二十メートル以上、幅十二メートル余り。それが南北百数十キロにも伸びて、
魔物の進入を阻んでいる。幅の半分は、防衛に就いている兵士の居住空間でもある。
 その砦の上を、クリームは、マーニャ、サスティナと歩いていた。
「……こんな砦でも、乗り越えたり破る魔物はいるのよね」
 サスティナが、砦の大きさ・堅牢さに感心すると同時に、それを破壊して侵入してき
たことのあるという魔物の力に、恐れを感じていた。
「それを食い止めるのが、私達の役目よ」
 応えて、クリームは言う。
「……ま、そうだけど」
 サスティナは笑って応えるが、マーニャは「魔物の森」の雰囲気に呑まれたのか、笑
うことは出来ず、不安な表情を変えられなかった。
「マーニャ」
 クリームに肩を叩かれ、マーニャは顔を上げる。
「これは、私達にとってのチャンスなのよ。恐れたり、立ち止まったりしている暇はな
いわ」
 クリームは大切な友人に、微笑みと共に、あの時の言葉を繰り返す。
「がんばれ、マーニャ」
 その言葉に、マーニャも微笑み、頷き返した。
「そういえばさ、ここの指揮官、誰だろうね」
 サスティナが、ヘルマン側を見下ろして言う。
 三人がここへ赴任してくるのと入れ替りに、今までの指揮官が帰って行った。そのた
め、現状はクリームが指揮官代理を務めている。
「そういえば、聞いてなかったわね……」
 すでに赴任してきているものとばかり思っていたが、まだ後任人事が決定していない
のであろうか?
 その噂を聞きつけたのか、兵士が報告にやってきた。
「只今、新任の指揮官殿が到着なさいました」
「分かりました。すぐ行きます」
 三人を、司令官室で待っていた人物は――
「また一緒だな」
 笑みを浮かべて、司令官は三人を迎えた。
「――バインド先輩」
 バインド・アルンヘイムは、クリームらがここへ配属になった三日後、転属辞令を受
けた。
 その際、アリストレスは、こう言い添えた。
「君が上にいた方が、彼女らも何かとやりやすくなるだろう」
 それは、アリストレスの最大の支援であったのだろう。
「半年の我慢――というより、半年で何か起きてくれた方が、我々にとっては好都合で
はあるのだがな」
 笑うバインドに、クリームたちも笑みを返す。
 彼の希望的観測が事実になったとき、それは最大級の非常事態であることを、冗談の
範囲内に留めながら。


「……死ぬの……かな」
 クリームが着任したその日――
 ヒルダは、魔物の森の木陰で倒れて、一人呟いた。
 軍事学校から姿を消したヒルダは、盗賊に身をやつしていた。
 しかし、そうとは知らないクリームが、盗賊掃討に手腕を発揮するようになると、そ
れを避けて西へと逃げ延びた。
 ローレングラードで一仕事した後、更に北の都市・イコマにアジトをおいてしばらく
活動を繰り返していたところ、番裏の砦から駐留軍が出動、一網打尽にされた。
 生き残ったヒルダと数人の手下の処分は、追放刑であった。
 ヘルマン帝国を追放。それだけならまだいい。追放刑とは即ち、「魔物の森」への追
放を示す。
 砦から、ロープが下ろされる。そこから、武器とわずかばかりの食料を持たされたヒ
ルダたちが、魔物の森へと降りて行く。
 ここで人が生き延びるのは、不可能に近い。魔物に発見されれば、生き延びることな
どまず叶わない。
 警備兵たちが矢で狙っている砦から離れて、ヒルダらは森へと入った。
 そこでまず、ヒルダは第一の試練を受ける。どうせ死ぬなら、と手下たちはヒルダに
襲いかかる。しかし、ヒルダもそれを予想していたので、仕方のないこと、と逆らいは
しなかった。
 そこへ数体の魔物が現れ、戦いになった。撃退はしたものの、仲間の半数が死んだ。
 それから魔物に遭遇すること三度。
 今、ヒルダは一人になり、魔物の群れからやっと逃げ延びていた。一人では何十体も
の魔物を相手に出来る訳もなく、ヒルダは逃げることしか出来なかった。
 食料も、昨日尽きた。剣にも亀裂が見つかった。疲労もピークに達している。
 もう戦えない――いずれ死ぬのだから、もう抵抗するのはやめよう。
 ヒルダは、剣を捨てて目を閉じた。
 数メートル横を、魔物達が通り過ぎて行くのを感じる。
 見つかったら、どうなるんだろう。
 犯されて、最後に殺されるんだろうな。
 痛いかな――
 そんなことを、ヒルダが考えたとき。
「おい、いたぞ」
 魔物がヒルダを発見した。
 終りかな――ヒルダは、魔物の足音に覚悟を決めた。
 盗賊に身を落してから、いいことなんかなかった。
 それもこれも、あの時仲間を裏切ったせいだろうか。
 もしやり直せるなら――
「待ちなさい」
 ヒルダを囲んでいた魔物達が、その新たな声に、気配を変える。
「ジ、ジーク様……」
 ジーク?
「女性一人に大勢で何をしようと言うのです?」
 ヒルダが目を開ける。
 魔物達と自分の目の前に立つ、スーツ姿の背中――誰?
 人間ではない。しかし、その頭の形状は、どこかで見覚えがあった。
「彼女は私が預ります。よろしいですね」
「は、はい、それはもう……」
 ジークの前から、魔物達が姿を消す。
 振り向いたジークの顔に、ヒルダは記憶をあるモンスターと合致させた。
 「まねした」。何にでも化けられる、しかしどこかヌケている憎めないモンスター、
と誰かが言っていた。
 目の前のまねしたが人間に化けているのなら、明らかに人間の顔をしているはずであ
る。が――このジークとかいうまねした、ただのモンスターにしては……
「お怪我はありませんか、お嬢さん」
 妙に紳士的な態度で、ジークはヒルダの前にひざまずく。
「え、ええ……助けて頂いて、有難うございます」
 モンスターにこんなことを言うのも妙な話だが、ヒルダも一応、礼を返す。
「このような場所で、女性がお一人でどうなさったのですか」
 ジークの表情は、まねしたのそれであるため、人間のヒルダには完全には読み取る事
は出来なかった。しかし、その目の輝きは、言葉が心からの真実であるように感じられ
た。
 疲労と、そして自嘲の笑みを浮かべて、ヒルダは答える。
「追放されたんです。ヘルマンを」
「ほう、追放とは穏やかではありませんね。何があったのか、よろしければ話して頂け
ますか?」
 自嘲に苦笑を織り混ぜて、ヒルダはポツポツと、今に至る経過を話し始めた。
 軍事学校に始まった、裏切りの人生。盗賊としての生活。逃走、捕獲、そして追放。
 いつしか、ヒルダは悔恨を涙に乗せていた。
 もしも戻れるのなら、軍事学校のあの時をやり直したい。
 語りながら、ヒルダは顔を臥せる。
「……あなたは、心底人生を悔いていますね。私にも、それはわかります」
 ジークは、頷いて応える。
「――しかし、ここではそのような悔恨など、意味を為さないのです。この大地では、
強い者だけが正義です」
 ジークは、まねしたの大きな手を、ヒルダに差し伸べる。
「私と来ますか」
 ヒルダが顔を上げる。
「あなたは人間です。我々魔族の敵です。しかし、あなたをこのままここへ放置してお
くことは、私の主義に反します。もし、あなたが人間を捨てて、私と共に来る気がある
のでしたら」
 ジークは、そこで目を細めた。
「あなたは、魔族としてなら、やり直すことが出来ます」
 ヒルダは、ジークの目を、じっと見つめている。
「もう、あなたは人間としてやり直すことは出来ません。この大地で、人間として生き
ることは不可能です。しかし、私はあなたを――」
「行きます」
 ヒルダは、ジークの言葉を遮って答える。
 ジークは、ヒルダの眼を正面から見据える。その真意と、覚悟を見極めるように。
「わかりました」
 眼を閉じて、ジークは言う。
 差し伸べたその手を、ヒルダの手が取った。
「人間の私はもう、ここで死んだのですから」
 ヒルダの言葉は、人との決別の言葉であった。
 頷いたジークが、ヒルダの手を取って、立ち上がった。
「行きましょう」
 軽々とヒルダを腕の中に抱え、ジークは宙へと舞った。


 四カ月後。
 番裏の砦は、平穏そのものであった。
 クリームの期待するような、華々しい戦果を上げる戦いは、数年に一度起きるかどう
か、というところであり、去年、それが起きている。ここで今、それを期待するのは、
クリームやバインドが間違っているのだろうか。
「平和な方がいいわよ。戦えば、誰かが死ぬかも知れない。ううん、大規模になれば、
必ず誰かが死ぬもの」
 何も起きないことをつまらなそうにするクリームに、マーニャは言う。
「もしかしたら、それが自分になるかもしれない。自分でなくても、あなたやサスティ
ナ、バインド先輩かもしれない。嫌な言い方かも知れないけど、もし私だけが生き残っ
たら、と思うと、このまま何も起きないでいてくれた方がいいわ」
 マーニャは臆病なのではなく、優しいのだ、とクリームは思う。
 臆病なら、ずっと父親の背中を追い続けて、振り向いてくれないことを嘆き続けただ
ろう。しかし、マーニャは、自分から父親の前に立とうとしている。その姿勢は、臆病
な人間のものではない。
 それに、クリームやサスティナ、バインドが死ぬことを恐れているのは、自分が一人
になることを恐れてのことだけではないだろう。残された人間の悲しみを思えば、死ぬ
ことは最大の裏切り行為であると、そう言いたいのだろう。
 クリームは、マーニャには、その優しさをなくさないで欲しいと思う。
 自分がなくしたものを、今も持ち続けている彼女を、クリームは、自分が死ぬことに
なっても護ってやりたかった。
「あと二ヶ月よ。そうすれば、また内地勤務になるわ。それまでの辛抱」
 頷くマーニャに、クリームは微笑みを返した。
「ここにいたのか」
 そこへ、バインドがやってくる。
「暇そうにしていないで、早く着替えろ。剣の訓練の時間だ」
「……またですか?」
 不服そうな、と言うより、もう勘弁してくれ、と言いたげな表情のクリーム。軍事学
校時代から、身体を使った授業は苦手だったのだ。
「軍人たるもの、体力が勝負だ。いかに頭がよくても、作戦行動に耐え得る体力を養っ
ておかなけりゃ、それこそ机上の空論にしかならない。それに、体力訓練も給料のうち
だし、自分の身ぐらい自分で護れるようにはしておかないとな」
 バインドは至極もっともな言い方をするのだが、その実、暇を持て余しているので、
暇潰しに自分達をしごいて楽しんでいるのではないか、とクリームは思う。
「何してんのクリーム。早くしなよ」
 サスティナが、軽装鎧を着けてやってきた。
 そりゃああんたはいいでしょうよ、とクリームは恨みがましい目で応えて、渋々マー
ニャと共に、装備室へと入る。
 第一部隊の訓練が行なわれているその傍らで、バインドとサスティナの前に、クリー
ムとマーニャが並ぶ。
「じゃ今日から、二人一組みの戦法を教えておこう」
 バインドは、確実に相手を倒すために考案された戦法をクリームとマーニャに教える
事にする。これならば、単独では戦力的に劣る二人でも、相当強い相手にも互角に戦え
るという。新入りの兵士には必ず教えておく戦法で、事実これで生き延びてきた兵士も
少なくはない。
「基本的には、一人が牽制役、一人が本命の攻撃だ。必要に応じて入れ替えるが、パタ
ーンが確定したら変えない方がいいだろう」
 バインドは、まず二人を前後に並べる。マーニャが前で牽制役、クリームが後ろで本
命。相手はサスティナ。
「まず、マーニャが右へ打ち込む。すると後ろからクリームが左へ。両側を一度に防御
できる器用な奴はそうはいないから、それだけでも十分戦える。あとは、二人でサイン
でも決めて、右左どっちへ行くか決めておくこと」
 サインを決めて、二人はサスティナと対する。
 マーニャが右へ打ち込む。クリームが、それに続いて左へ出る。
 が、サスティナはマーニャを簡単に打ち崩して、クリームの剣を受け止め、同じく簡
単に押し転がした。
「マーニャが動いたら、同時にクリームは前に出なくちゃいけない。順番に打つんじゃ
なくて、同時に当てるんだよ」
「そんなこと言われたって……」
 クリームが早々と音を上げると、その頭をサスティナがすぱむと叩く。
「痛っ」
「どこの参謀だって、これぐらいの訓練はするわよ。あんた、剣とか格闘、いっつも赤
点ギリギリだったじゃない。ここじゃ赤点は死ぬのよ」
 そうまで言われては、クリームも一応真剣にやらざるをえない。
 昼から夕方までみっちり仕込まれて、何とかサスティナから、三本に二本はとれるよ
うになって、やっと二人は解放される。
「う〜、づがれだ〜」
 ベッドに転がって、クリームは唸る。二・三日に一度とはいえ、普段から身体を動か
していないクリームには、あの訓練の量は非常にこたえる。
「でもさあ、二人でやれば、とりあえずサスティナぐらいには戦えるってことだよね」
「んー」
 答えるのも億劫なクリームは、マーニャが比較的元気なのが不思議に思える。
 その日クリームは、マーニャに着替えさせて貰って、そのまま早々に眠ってしまう。
 しかしそれからもバインドの訓練は続き、一カ月後には、二人同時の戦法は、一応の
完成を見た。
 それでも、一人では相変わらず半人前ではあったが。


「ところでさあ、クリーム」
 訓練のない日の、いつもの午後のお茶の席で、マーニャが切り出す。
 バインドは昨日からローレングラードへ行っていて、サスティナは定時報告書類を至
急上げねばならず、この席にはいなかった。
「知ってた? バインド先輩とサスティナ、付き合ってたって」
 それを聞いたクリーム、思わず吹き出しそうになる。
「……サスティナが?」
「そーなのよぉ。この前、二人で話してるのちょっと聞いちゃったんだけどさ。それで
ね、ここの勤務無事終了したら、サスティナ、プロポーズするんだって」
「プロポーズぅ?」
 なんとまあ、そこまで話が進んでいようとは。
「ほら、バインド先輩、首都勤務の時、サスティナをかばって飛ばされちゃったじゃな
い。その時からじゃないかな」
「はあ……そういうことね」
 恋愛に関しては鈍いクリームも、そこまで説明されれば理解できる。もちろん、昔バ
インドが自分に向けていた視線には、彼女は全く気付いてはいない。
「あの娘がねえ……ふぅん」
 感心したような、驚いたような口ぶりで、クリームはカップに口をつける。
 それを見てマーニャ、微妙な笑みを湛え、
「そう言えばクリーム、第一軍勤務のとき、バインド先輩と一緒だったんでしょ」
「そうだけど?」
「軍事学校時代も、よく助けて貰ってたよね」
「そうね。ずっと助けて貰ってたかな」
「……それだけ?」
「感謝してるわよ。すっごく。バインド先輩がいなかったら、今のこうしている私、い
なかったでしょうから」
「……それだけ?」
「何が言いたいの?」
 マーニャの、見透かしているような眼が、クリームには引っかかる。
 その彼女の反応を楽しむように、マーニャは続ける。
「いえねー、もう少しなんてゆーかなー、バインド先輩とはあたしの方が付き合い長い
んだぞーぐらいのことは言うかと思ったんだけど」
「……そりゃあ、付き合いは長いけど……マーニャも知ってる事でしょ?」
 額を指で押さえて、マーニャは苦笑と共に小さく頭を振る。
「……ダメかな、こりゃ」
「何が?」
 クリームは眉を寄せる。マーニャの言いたい事が読み取れないのである。
 普段なら、相手の顔色や表情、話し方で相手の言いたいことは大抵読めるのだが、どう
もマーニャと話していると、それが出来ないのである。
「いやいや、名参謀殿もこちらの分野は苦手のようで」
「???」
 苦笑するマーニャに、クリームは首を傾げるばかり。
 マーニャはというと、バインドがクリームに向けている視線の意味を感じとっていた
からこそ、このような質問をぶつけてみたのだが、やはりクリームはクリームである、
と再認識しただけであった。


序章 終章