宇王伝



   4. 〈宇道〉の闘い

 覇王都市、メイ・キング。
 「覇王会」にて、最強の証を勝ち取った「聖天覇王」の住まう都市。
 そこへ、明日香は帰ってきた。
 最強の覇王、ペルフェウス・カーンを倒すため。
 クレイン、アルザス以下三人の盗賊の馬車で、メイ・キングへ通じる下りの峠道を、明日香は進んでいく。
 一年前、同じ道を、明日香は歩いてあの都市へ向かった。
 明日香は、御者席から降りると、歩いていくから先に行って宿を確保するよう、クレインに言う。
「どうかしたんですかい、姐さん」
「歩いて行きたいのよ。一年前のようにね」
 わかりやした、とクレインは軽く頭を下げて、先に都市に行く。
 あの時、明日香は宇道の全てを伝えられていた。しかし、それを全て使いこなせるわけではなかった。
 が、今は違う。
 明日香は、真の〈宇〉を感じ取ったのだ。
 それが全てであるわけではない。しかし全てを識るためには、全てを感じるためには、この一歩がどうしても必要だったのだ。
 それを通過したとき、明日香の宇道は、真の目指すべき〈宇道〉は、完成に向けて大きく前進した。
 そして明日香は、同時にペルフェウスの言葉の意味を知った。「宇道の全てを受け継ぐ存在」   真の〈宇〉を感じることの出来る存在。
 それが今の明日香であった。
 もう、敗けはしない   明日香は、一年前とは打って変わった、自信に溢れた歩調で、覇王都市へと向かっていた。
 と、その途中で、誰かがずっと前にいるのが感じられた。
 この感じ   明日香は一度歩を止めて、その気配を感じる。
 そして、再び歩き始める。
「久しぶりだな」
 「男」は、明日香に馴々しく声をかける。
 明日香は、その男に面識があった。
 いや、面識どころではない。
「覇王自ら、わざわざお出迎えとは、どういうつもりかしら」
 明日香は、目の前の「聖天覇王」に訊ねる。
 ペルフェウスは答えず、目を伏せて微笑む。
「少し、話がしたい」
 明日香は眉を顰める。ペルフェウスの意図は掴みかねたが、断る理由もない。
 二人は、肩を並べて、下りの峠道を歩いていく。
「話って?」
「こうして歩くのは、十年ぶりぐらいだな」
 ペルフェウスは、明日香が驚きの色を見せるほど穏やかな表情を、懐かしさを漂わせながら作っていた。
「俺は十六歳、お前が十三歳だったかな」
「……覚えてないわ」
「だろうな」
 ペルフェウスは苦笑する。
「お前が、カインの武術大会の少年部に初めて出た時、大会に出なかった俺が、付き添いを命じられた。あの時お前は、四位だったか。負けた悔しさで、道々放り出した荷物を、俺が拾って運んでやった」
「そうだったかしら」
 とは言うが、明日香は確かにそんな記憶がある。ただ、その時、誰が側にいたかまでは覚えてはいなかった。あれは、キョウトではなかったのだろうか。
「お前は、昔から何かをするとやりっぱなしにする奴だったから、その後片付けは大体、俺がやらされた」
 笑うペルフェウスに、明日香は心当たりがありすぎて、恥ずかしくなってくる。
「……うそ」
「というより、俺が進んでやっていたんだよ。だけど、お前は誰が片付けていたかなんて気にも留めていなかったけどな」
 笑うペルフェウスに、引きつった笑みを返す明日香。
「その頃から、ずっとお前のことを見ていた」
 明日香が、その言葉に足を止める。
 数歩先で、ペルフェウスは振り返り、優しい笑みを見せる。
「それは、今も変わらない」
「……ズルいわよ、そんなの」
 明日香は、顔が熱くなるのを感じながら、目を逸らす。
「お前は鈍いから、目の前ではっきり言ってやらないと、一生気付かないで終わるかも知れない、とキョウトに言われた」
「……兄さんが?」
「キョウトの方が、ずっと先に気付いていた。師匠もな」
 自ら手にかけた二人の名を出すペルフェウスの表情には、懐かしみはあっても、悔恨はなかった。
「だから、俺は追い出されたんだ」
 その瞬間、ペルフェウスの表情が一変した。憎しみ、恨み、哀しみ   先程までの穏やかな表情が、憎悪に満ちたものになっていた。
「お前は、いずれキョウトと結婚することになっていた」
 ペルフェウスの言葉は、明日香を驚かせはしたものの、冗談以上の何物にも聞こえなかった。
「冗談はよして   兄さんなのよ? 血を分けた」
「だからだ」
 ペルフェウスは、先に立って、再び歩き始める。それを追う明日香。
   血を分けた兄妹だからこそ、血は、才能は濃く受け継がれる。血の伝承には、近親結婚など当たり前の話だ」
「ちょっと待ってよ」
 明日香は、真面目にそれを受け取るには抵抗があった。確かに兄は憧憬の対象であり、男としても見ることは出来た。しかし、明日香にとってはそれ以前に、兄であるという以上の存在ではなかった。
「キョウトは知っていた。だから、俺にお前を託そうとした。俺に覇王会への出場を勧め たのも、キョウトだった。師匠にそれを話したのも、な」
「嘘よ、そんなの   
 否定する明日香の言葉には、怒りが篭もり始めていた。しかしその怒りは、どこへ向けられたものであったろうか。
「聖天覇王として、師匠を超えるほどに強くなり、力ずくでお前を奪っていってくれ、とあいつは俺に言ってきた」
「嘘よ! 全部出鱈目だわ!」
「自分自身が俺と戦うことになったキョウトは、そこで死ぬ決心をした。自分がいなくなれば、明日香は宇道の伝承という、忌まわしき血の運命から解放される。そう言った」
「兄さんはそんなこと言わない! 言ってない!」
「信じる信じないは勝手だ。だが、事実だ。ただ、リュウスイが俺に挑んできたのは、キョウトの仇を討つためではあったがな。だが、それは敵討ちが目的ではなく、宇道の伝承を途絶えさせる事に対する、宇道総帥としての制裁だった。愛する息子を殺した仇としての復讐ではなかったのかも知れん」
「やめて!!」
 明日香は耳を塞ぐ。
 ペルフェウスの言い分が事実なら、自分のしてきたことは何だったのか。ペルフェウスに辱められ、盗賊達に犯され、堕胎してもなお強さを求め続けたのは、何のためなのか。
 だから、明日香は信じたくはなかった。信じるわけにはいかなかった。
   事実がどうであろうと、あなたが兄と、父を殺したのは事実よ」
「ああ」
 ペルフェウスも、これ以上明日香には何を言っても信じないだろうことはわかった。
 明日香が顔を上げる。そこには、憐愍や同情などは一切存在しなかった。
「……あなたを、殺す」
 それしか、明日香にはない。
「できるか?」
 振り返ったペルフェウスは、すでに覇王の顔になっていた。
「わずか一年たらずで、どれだけ強くなったかは知らんが   
 右手が、夕陽の中、マントを跳ね上げる。
「俺に勝てるのか?」
「勝つわ」
 明日香の眼が、敵を見るそれになっている。
「……いいだろう」
 ペルフェウスは、牙を見せるように不敵に笑う。
「だが、これで最後だ」
「最後?」
「何度も何度も、弱い奴を相手にしてやるほど、俺は暇じゃあない。この大会で決着を着ける」
「いいでしょう。私が勝ったら   そして、もし生き残っていたなら、父と兄の墓前で、土下座して詫びてもらうわ」
 明日香の言葉に、ペルフェウスは目を細めて応える。
「俺が勝ったら、お前には俺の女房になってもらう」
 明日香が、眉間に縦皺を作る。
「もちろん、宇道も、復讐も、何もかも捨てて、俺の元へ来るんだ。今後一切、武術にも関わらせない」
「……いいわ」
 ペルフェウスの表情が、一瞬柔らかくなったように見えたのは、自分の勝利を確信してのことだろうか。明日香は、それが癇に触った。
「その自信ごと打ち砕いて、父と兄に詫びさせる」
「やってもらおう。やれるものならな」
 ペルフェウスは、背中を向けて、声に出して笑った。
 その背中を見送りながら、明日香は拳を握り締めていた。

 覇王会は、大方の予想どおりの結果となった。
 北ブロックから勝ち上がったペルフェウス、東ブロックから明日香。
 ペルフェウスは南ブロック優勝の男と、明日香は西ブロック優勝の男と戦い、それぞれに圧倒的な勝利を得た。
 そして、決勝戦。
 「聖天覇王」ペルフェウス・カーン対〈宇道〉総帥明日香・イプリング。
 ペルフェウスが半袖の道着を着けているのに対し、明日香はノースリーブの、身体に密着した黒のボディスーツの上に、ミニスカートを着けている。
 昨年のような、唐突に始まり、気が付けば終わっているという展開を予想してか、観客の誰もが、二人の一挙手一投足を見逃すまいと、会場中央の闘場を凝視している。
「……昨年とは気配が違う。どれほど強くなったか、見せてもらおう」
 ペルフェウスは、明日香の纏う気配の違いをすでに感じ取ってはいたが、実際こうして正面きって向かい合うと、その成長ぶりがはっきりとわかった。少なくとも、去年の自分のレベルは超えている   しかし、それはペルフェウス自身も同じである。
 その差が、どの程度縮まったのか、自分を追い越すほどになったのか、それはペルフェウスにも、実際手合せしなければわからなかった。
 闘場の上、二人が円を描きながら、少しづつ間合いを縮めていく。
 すでに〈宇〉では制空権を争い、二人の間に不穏な流れを作っている。
 突如、闘場の二人の間の敷石が、ハンマーにでも殴られたように割れる。
 手の届く距離ではないが、すでに闘いは始まっていた。
 互いの〈宇〉が、相手を制するために、押し合い、絡み合い、溶け込もうとしている。それを互いに押し返し、禦いでいる。その力は完全に拮抗し、微妙な力の均衡を保っていた。その均衡点では、目に見えない、それでいて破壊的な力が渦巻いている。砕かれる敷石、渦巻く風、それらが動かない二人の闘いを、観客に感じさせていた。
「これでは埒があかんな……」
 先に仕掛けた方が有利か不利かはわからない。しかし、このままでは夜になっても、明日になっても状況は同じであろう。
 ペルフェウスは先に仕掛けることにした。明日香が受けに出れば、パワーに勝る自分が勝つ   ペルフェウスは、そう考えた。
 それを読んだのだろうか。
 ペルフェウスが先手を取ることを決めたその時、明日香が接近戦を挑んできた。
 明日香の掌が、ペルフェウスの鳩尾に触れる。
「!」
 明日香が「発勁」した瞬間、ペルフェウスは後ろに跳び、同じく「発勁の呼吸」で防御する。
 「く」の字に曲がって宙を舞うペルフェウス。
 しかし、その顔にダメージの色はない。
 明日香が、着地の瞬間を狙って疾る。
 が、ペルフェウスは着地した瞬間、迎撃態勢を整えている。
 明日香の掌打。
 それを、ペルフェウスは無意識に拳で打つ。
 勁が衝突する。
 二歩下がらされたペルフェウスに対し、明日香は跳ばされ、一回転して立ち上がる。体重の差が、反作用の差になって現われたのだ。
「姐さん!」
 観客席で、クレインが思わず腰を浮かす。
「やべえぞ、こりゃあ   力負けしてる」
「いや」
 アルザスが、隣で言う。
「承知の上だろう。それでも敢えて挑むのは、勝算あってのこと。それに、姐さんの本当の闘い方は、殴り合いじゃない」
 明日香が、唇を舐める。その眼には、敗北ではなく、勝利の色がある。
 そして、無造作に立ち上がると、何の構えもなしに、ペルフェウスに向かって歩き始めた。
 何のつもりか   警戒するペルフェウスに、明日香は尚も迫る。彼女の表情には、恐怖も、気負いも、焦りも何もない。ただ、口元に微笑みを浮かべて、自然に歩いてくる。
 ペルフェウスは、明日香の〈宇〉を読もうとする   が、見えるはずのそれは、明日香の周りにぼんやりと溶け込んで、何の気配も放っていない。
「それなら、正面から打ち砕くまで!」
 ペルフェウスの左拳が、明日香を打つ。
 拳に、明日香の頬の感触。
 確実に打った、とペルフェウスは感じた。
 が。
 拳の先には、明日香の姿はない。
 腕の内側に、微笑む彼女の顔はあった。
 その頬はわずかに上気し、色気すら漂わせていた。
 知らずに接近を許した明日香から、ペルフェウスは大きく距離を取る。
 が、明日香は再び、表情を変える事無くペルフェウスに迫る。
 今度は、ペルフェウスから接近し、逃げ場のない連打を浴びせる。
 一発目が、明日香の顔の残像を擦り抜ける。二発、三発、それはペルフェウスも驚く速度であった。全ての拳が、今度は何の感触も得られぬままに素通りした瞬間、明日香がペルフェウスの腹に触れた。



 何かが爆発した   ペルフェウスは、そう感じた。
 大した威力ではない。ダメージも皆無ではないが、さほどではない。
 しかし、自分の拳が当たらず、明日香の攻撃は当たることに、ペルフェウスは警戒せざるを得なかった。
 当の明日香は、一歩ごとに高まっていく〈宇〉と、それに伴う官能の高まりに身を任せているだけであった。身体を包む高揚感、両脚の間に生じるぬめりも、〈宇〉を導いている証拠である。
 真の〈宇〉を感じるには、本能を解放する必要がある。理性をなくした、自然にあるがままの「動物としての人」となったとき、初めてその扉は開かれる。
 ペルフェウスに、盗賊たちに凌辱されてきた日々が、明日香にその扉を開かせた。その記憶を、身体に刻まれた官能を、完全なる理性の下に解放することで、真の〈宇道〉は完成したのだ。
 そのために明日香は、この数か月、「宇の扉」を完全に自在に開くために、クレインらを手元に引き止めておいたのである。盗賊のアジトでの状況を再現し、その快楽を完全に理性の制御下に置いたとき、〈宇道〉は明日香の前に示された。
 明日香の異常なまでの〈宇〉の練り上げは、ペルフェウスにも感じられた。かつて感じたことのない、異様なまでに「濃い」〈宇〉。
 それが、大気のように闘場を満たしている。
「……なるほど、当たらんわけだ」
 ペルフェウスの全ての攻撃は、明日香に読まれていた。そして、この濃密な〈宇〉によって、それらは全て、〈宇〉の源である明日香の身体を弾いていたのである。つまりは、二人の〈宇〉は磁石のN極とS極のようなものであり、ペルフェウスが〈宇〉を強めれば強めるほど、明日香には当たらなくなるのである。
「ならば、これならどうだ」
 再び、ペルフェウスは迫る明日香と対する。
 ペルフェウスの拳が、三度彼女を打つ。
 同じく三度、明日香を脇へ弾く。
 が、外れた拳は、明日香の髪を掴んでいた。
「!」
 ペルフェウスの掌打が、明日香の胸の中央を打つ。
 しかしペルフェウスの掌は、彼女には触れていなかった。
 解かれた〈宇〉が、その身体を物理的に防御しているためである。
 それは、格下の相手には有効であった。
 が、ペルフェウスは、仮にも前宇道総帥を倒した男。
 防御のための〈宇〉が、明日香に災いした。
 弾かれるはずのペルフェウスがその場に留まったため、その打撃力、そして圧縮された〈宇〉の復元力とが、明日香を衝撃的に弾いたのだ。
 闘場の床に、明日香の身体が落ちる。〈宇〉に護られた身体は、その衝撃には耐えた。しかし、ペルフェウスから与えられた一撃は、少なからぬダメージを残していた。
「それで勝てると思ったのか?」
 肩を回して、ペルフェウスは嗤う。その身体から、明日香に対抗し得る強さの〈宇〉が立ち昇る。
「《宇》の専門家は、お前だけではない。それとも、自分だけがその境地に達した、そして対抗する術はない、とでも?」
「さあ   少しはいけると思ったんだけどね」
 明日香は笑って、呼吸を整える。
 再び明日香を包み込む〈宇〉。
 ペルフェウスは鼻で笑い、右手を前に、左手をやや下げて、顔の前にまで上げる。手は握られず、自然に開いたまま、視線は相手を見据える。
 〈宇道〉の、最も基本となる構え   その構えに、明日香はペルフェウスの「本気」を見た。「お前の得意技で、お前を敗る」   ペルフェウスはそう言っているのだ。
 明日香もまた、黙って腕を上げていく。その構えは、対するペルフェウスのそれと同じもの。
「……終わらせる気だ」
 アルザスが呟く。
 クレインが、無意識に唾を飲み込む。
 観客の誰もが、その二人に全意識を注ぐ。
 呼吸さえも騒音になろうかと思われる、静寂に包まれた、空白の時間。
 「風」が、闘場から噴き出した。
 観客が、波紋のような強烈な風になぶられ、視界を失った一瞬。
 二人の間で、〈宇〉が交錯した。
 ハンマーのごとき衝撃と、針のごとき鋭さが、同時に二人を襲った。
 身体を貫き、機能の全てを奪おうとする、互いの生命力。
 二人の生命そのものが、そこで激突した。
 その時観客たちは、何かが爆発したような音を聞いた。
 後に、観客たちはそれを、音ではなく「震動」であった、と思い起す。
 「音」を切っ掛けに、観客は、再び我に返る。
 そこで、彼らは、闘いの結末を見た。
 全身の毛細血管から血を吹き出し、身体を深紅に染めた二人が、互いに構えたまま闘場に立ち尽くす。
 先に倒れたのは   
「姐さん!」
 明日香の膝が折れた。
 しかし、その膝は、床に着かずに空中に留まった。
 一瞬遅れて、ペルフェウスが同じく膝を折った。
 膝と手を、半ば砕かれた石畳につく覇王。
 明日香は、それを見届けると、口の端を吊り上げた。
 そして、崩れた。
 最後に、その場に立っていたのは、覇王ペルフェウス。
 地に伏した明日香を、彼は黙って見下ろしていた。



(C)Nighthawk 1999